つらつらと

2007年9月29日 読書
朝日新聞読んでたら経済産業省上席研究員の小林慶一郎って人が、「格差拡大の原因はコンピューターだ」って言ってて、この人の裏テーマは要するに「行政のせいではないですよ」ってことなのかも知れないけれど、確かに「ひとりに1台コンピューター」の時代の到来はあらゆるもののあり方を変えたと思う。たとえば、家に帰って最初にすることはかつて「テレビをつけること」だったんだけれど、今は「パソコンのスイッチを入れること」になっている。
それで思ったんだけれど、こんなにコンピューターが普及する前は「ひとり1台テレビ」って家が結構あったと思うんだけれど、今はどれくらいあるんだろう?一時どんどん小型化してったテレビは逆に大型化している気がする。アクオスとかブラビアの登場で。テレビとかの「1名さまにプレゼント!」みたいな企画でも、45インチ以上じゃないとなんとなく「ケチだな〜」みたいな雰囲気になってきている。そうして大きいテレビが主流になると、価格的に「ひとり一台テレビを持つ」ことは困難になる。たぶん「大型テレビが居間に1台」みたいな家が増えてきてるんじゃないかと思う。
そういう環境的な面から考えても、人はひとりの時テレビを見なくなってきているんじゃないだろうか。ひとりだったらコンピューターに向かえばいいんだから。コンピューターは(原丈人さんが「21世紀の国富論」で指摘するように)「個」をネットを通して「つなぐ」コミュニケーションツールとしての意味合いをこれからもどんどん強めてゆくだろう。だから、コンピューターの前にひとりで座る時、人は孤独のように見えて孤独ではない。どこへでもつながれるから。しかし、ひとりでテレビを見るとき、人は孤独から逃れられない。テレビは、「私」をどこにもつなげてくれないから。しかも活字メディアと違って、テレビはその映像と音声によって受け手の想像力をも遮断してしまう。テレビの前で、人はどこへも行けない。
テレビはもともと「大量消費」を促すために生まれたメディアなのだから、テレビにとって「個」はあまり大きな意味を持たない。ミャンマーの混乱をテレビで見ても、「私には何もできない」という無力感を持つしかない。しかしネットを通せば(いまは遮断されてるけど)直接ミャンマーの人とつながることも可能だ。実際につながらなくても、「可能だ」というところに救いがある。そういう意味ではテレビというメディアは、「コミュニケーション」という考え方を放棄してきたと言ってもいいだろう。
で、これからテレビはどうなるのか、を考えてみるに、テレビの向こうとのコミュニケーションが不可能な以上、「ひとりでテレビを見る」という習慣はどんどん廃れてゆくだろう。しかし、テレビの「こちら側」の「受け手」が横につながってゆく、ということはあるのではないか、と思う。
テレビは、「家族間のコミュニケーションを促す触媒」のようなメディアになってゆくのではないか。テレビは、日頃共通言語を持たない「家族」同士が「共通の会話」をするための、「個」としての性格を強める家族たちを横につなぐための「道具」になってゆくのではないか、と思う。「どこへも行けない」テレビの性質は、ここではプラスに働く。だって家族たちはテレビの前にいれば「どこへも行かなくていい」のだから。
そう考えれば、少なくとも家族の多くが顔を揃えるゴールデンタイムにおいて、「家族で見られない番組」はこれから廃れてゆくのではないか。生き残るのは「どの世代でもわかる」「家族と一緒でも安心して見られる」「家族間のコミュニケーションが円滑に進む」ソフトになるのではないか。
デジタル化に伴いテレビがさらに贅沢品となって一世帯あたりのテレビ台数がますます減少し、このままテレビの「個人視聴時間」が減り続ければ、やがてテレビを見ることが「日常」ではなく「祝祭」化してゆく。そうしてテレビが「家族の祝祭のための神器」になってゆけば、「一億総白痴化」を推進してきたテレビの性質は変わってゆくのではないだろうか。変わってゆかざるを得ないのではないか。
昨今の「教養番組ブーム」はその兆候も知れない。「エジプト4時間スペシャル」が視聴率16パーセントだったり、「芸能人雑学王」が22パーセントだったり、NHKで地味に不定期放送されてた「爆笑問題のニッポンの教養」がレギュラー化されたり(「ニッポンの教養」はホントにいい番組だし面白いです!オススメ!)してるのは、そうした流れの中で起きてることなのではないだろうか、とふと。
村上春樹さんがいうように「世界の知性の総量は一定だ」としたら、そうした知性の一部がテレビに流入することは、知性の平均化が進むことのように思えるので望ましい気がします。いつまでも週刊新潮や週刊文春みたいな(「男の志の低さを具現化した」by高橋源一郎…たぶん)嫉妬のメディアに「知性」みたいな顔をさせておく時代は早く終わって欲しいし。そんなこんなを考えながらきょうも仕事しています。しかし寒いね…。

爆笑問題のニッポンの教養
ISBN:406214283X 新書 講談社 2007/09/27 ¥798

ついでに

2007年9月29日 日常
これもくだらなくていいですよ〜。
http://usokomaker.com/calendar/
脳内メーカーの変化球版。
ぼくの本名入れてみたら合コンばっかしてることになってます。
してないよ。したいけど。
ふらふらとネットを徘徊してたら面白いものを見つけたので
載っけておきます。
http://www.uremon.com/heaven/
で、ぼくの結果↓
2007年の僕へ。
元気ですか?2007年ごろの自分のことを懐かしく思い出します。
僕は95歳で、つまり西暦2059年に、ちょっとした怪我が元で生涯を終えます。振り返ってみると、自分でも素晴らしい人生だったと胸をはって言えます。
だたひとつだけ過去の自分に、つまり今のあなたに伝えておきたい事があります。それは 2014年の冬のこと、僕は運命に導かれるようにして、地下鉄のホームである人と再会します。振り返ってみると、それは人生の大きな分岐点でした。時がくればわかると思います。
最後にひと言、95年間生きてみて思ったのは「やっぱり、家族こそが自分が何より大切にすべきもの」ってこと。
それでは、またいつか会いましょう。
これから先の人生を精一杯たのしんでください。

たこバス - 2059年の天国にて

長生きじゃん!
っていうか95歳まで生きたとしても2059年なんだ!
ってことがなにげにショックでした。
大丈夫かなぁ、大塚愛。
heartって曲のプロモがいまやたら
音楽チャンネルとかでかかってるんですが、
http://www.youtube.com/watch?v=KLiWknES2oM
その中の彼女のカットのどれもこれもすべてが
「男の性的欲情を刺激する」カットなんですよね。
で、たぶん彼女は自覚的にそれをやっている。

これは疲れるだろうなぁ。不特定多数の男たちの欲情した視線にさらされていることを自覚しながら、かつ「欲情装置としての女」である自分をあえて引き受けると言うのは。
女性がある年齢になるとおばさんになってしまうのは、そうした生き方にムリがあるからだとぼくは思います。男の欲情の対象として自己を見出し続ける生き方と言うのはどう考えても自然じゃない。もっとも最近個人的にハマッてる心理学者コフートによると「自立」なんてものはありえなくて、「依存」の先にあるのは「よりよい依存」でしかない、ということらしいんですが、だとしても「欲情装置」として男の欲情に依存するのだとしたら、それは「あなたでなくてもいい」のだし「代わりはいくらでもいる」。ウインドウに並べられた商品のひとつにしか過ぎない気がします。シーズンが終われば新しい商品に取って代わられる。
ぼくはフェミニストでも何でもないですが、大塚さんみたいな痛々しいまでに欲情装置であることに自覚的である人を見ると、もっと違う生き方があると思うよ、たとえば欲情の針を過剰に触れさせて笑いに転じる倖田來未さんの戦略とか、と(勿論届かないですが)言ってあげたくなります。ただ残念ながらぼくも大塚さんの自覚的な振る舞いにそれでも欲情してしまっている以上、欲情装置としての女性という概念の維持に加担していることに違いはないのですが。そろそろ解放されたいです。セックスをめぐるあれやこれやから。1957年のフラニーは「エゴ、エゴ、エゴ!」と叫んだけれど、2007年のフラニーは「セックス、セックス、セックス!」と叫ぶかも知れませんね。ただ、2007年のフラニーに電話をかけてあげられるゾーイーはまだ現れていない気がします。少なくとも上野千鶴子さんや内田樹さんのような「セックスなんてくだらないことにいつまでとらわれてるんだ!」って言い方では全然救われないと思います。難しいですね…。

LOVE PiECE(DVD付) 大塚愛 CD

妄想ですが

2007年9月26日 音楽
よう「たけちゃん、ようね、こんどの曲、
   たけちゃんと組むのやめる〜」
小林「えっ!何でだよ、よう!」
よう「こんどの曲はたけちゃんへの
   プレゼントにしたいんだ。
   だから。出来上がったら聴いてみてね」
小林「(不服そうに)わかったよ…」

3か月後。
深夜、部屋の中でひとりヘッドホンで曲を聴きながら。
小林「よう…ありがとう(サビのとこで落涙)」

…なんてことがあったりして、とこの曲を聴きながら妄想してしまいました。何の先入観も持たずにただ曲を聴けば、オッサン向けのカラオケの曲としていいかな、くらいの曲だと思うんですが、一青窈さんが現在置かれてるシチュエーションにおいて(しかもアレンジャーを小林さん以外の人に頼んで)あえてこの曲を出したって考えると、これはもうすさまじい曲です。やっぱり恋愛って狂気だなっていうか、結婚ってものが所詮は紙切れ一枚に守られたものでしかなくて、恋愛至上主義の中でさらに絶対的なものではなくなっている、っていう流れの中で、ついにここまで「奥さんのいる人との恋愛」を肯定的にかつ挑発的に歌う曲が出てきたか、という感慨を持ちました。
もしも私が先に死んであなたを悲しませるなら
どんなに傷ついても今を生きるため負けない
ある意味壮絶なまでの覚悟ですよね…。
でも「結婚」は他人への愛を要求するけど「恋愛」は自己愛でも成立するから恋愛の方が絶対に結婚より楽で、結局は(特に男は)みんな楽な方へ流れてゆくんだな、って結婚に失敗したくせに他人事のようにあれこれ考えてしまうきょうこの頃です。
しかし挑戦的だなあ、一青窈 。この曲、世間にどう評価されるのか、黙殺されるのか、楽しみです。

つないで手 一青窈 CD 2007/09/19 ¥1,260

ようやく、

2007年9月26日 読書
とりあえず仕事がヤマを越える!というところにたどり着いて、ひと息ついています。自分で言うのも何だけど(でも誰も言ってくれないから言うけど)頑張ったなぁ、今回。あとは徹夜続きで夜食に手を出して緩んだこの体を何とかしなければ。ウチ体重計ないんだよね…。買わなくちゃ。

仕事がらみの本をずっと読んでいて本屋さんに行く時間もなかったのですが、ちょっと余裕が出てきたので中村うさぎさんの「セックス放浪記」が読みたくなって近所の本屋へ。2軒回ったのですが2軒とも売切れでした。もしかして、売れてる?前にぱらぱら立ち読みした時に、本文中のいくつかのフレーズと巻末の佐藤優さんとの対談が面白そうで気になりつつ、しばらく読む暇ないなぁ、と買わずにおいてしまったことを今になって後悔しています。やっぱり本はピンときた時が買い時だなぁ…。でもそうやって衝動的に買って読まずに積み上がってる本が会社や家にどれだけあるか考えてみろ、ともうひとりの自分が。とりあえず近々「佐藤可士和の超整理術」でも買って整理術を学ぼうと思います。あ、でもそれすら読まずにさらに本が積み上がってしまったら…。う〜ん。無限ループだぁ…。

佐藤可士和の超整理術
ISBN:4532165946 単行本 佐藤 可士和 日本経済新聞出版社 2007/09/15 ¥1,575
毎日毎日自分らしくないくらい真っ当に仕事をこなしているからか、この本のような「ダメな大人が一人称で自分のダメさを全肯定している小説」にすごく癒されてしまっています。
セックスが堕落なのではない。堕落はセックス以外である。セックスは闘争でもないし、浅薄な娯楽でもない。セックスは死への復讐である。死を忘れるなかれ。絶対に忘れるなかれ。

…ね、いい感じにダメでしょ?他にも、
きみも結婚と言う考えの子どもっぽさについて教えを受けたいのかい?もちろんそれは子どもっぽいよ。家族生活っていうのは子どもっぽいんだ。これまで以上に今日、社会の精神が子どもによって作られるようになった今はね。子どもがいないともっとよくない。だって子どもっぽい大人が子どもの代わりになってしまうから。

要は「結婚なんて“子どもっぽい”ことはオレみたいな“大人”にはムリだぜ!」って理論なんですが、ああ、これだけ自己の欲求完全肯定のダメ人間になれたら心地よいだろうなぁ…と考えながら、そろそろ目の前の資料の山に目を通して企画書を書き始めようかと思っているぼくは中途半端なダメ人間です。
仕事しよ。

ISBN:4087733963 集英社 2005/01 ¥1,575

台風だ

2007年9月7日 日常
でも大丈夫。
だって帰らなくていいんだもん!
なぜなら会社に泊まりこみだから!
…土曜日のヤマを過ぎたら今度こそ休もう。

ストレス解消に本を買っているので、会社のデスクに
どんどん読まれていない本が積み上げられていきます。
新しく買ったものから順に、

・「海に帰る日」ジョン・バンヴィル
・「キャンディの色は赤」魚喃キリコ
・「21世紀の国富論」原丈人
・「ダイイング・アニマル」フィリップ・ロス
・「世界でもっとも美しい10の科学実験」R・P・クリース
・「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」チャイルズ
・「ダロウェイ夫人」ヴァージニア・ウルフ
・「色彩論」J.W.V. ゲーテ
・「カラマーゾフの兄弟・1」ドストエフスキー
・「行動経済学〜経済は感情で動いている」友野典男

どれもこれも面白そうなので(微妙に仕事関係のが混ざっていますが…)仕事の合間に少しづつ「つまみ読み」しています。でも早く仕事を落ち着かせて思う存分読書に没頭したいです。あ、風強くなってきた!28階こわいよ!

海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)
ISBN:4105900617 2007/08 ¥1,995
と書くと「続編か!」って感じですが勿論そんなことではなく。近所の本屋でついに光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟1」を見つけたのでした。買おう!と思って手に取ったのですが、待てよ、今これを買うのってすごくミーハーっぽくて恥ずかしいなあ、と近くにあったちょっとエッチなサブカルまんが(「眠れる惑星」ってマンガ)を一緒に買ってミーハー色を薄めようと考え、2冊を手にレジの前で並んでいたのですが、突然電流に打たれたように
(待てよ!これはどう考えても「エッチなまんがを買いたくて、でも恥ずかしいからそれをカモフラージュするためにカラマーゾフの兄弟を買ってる人」にしか見えないんじゃ!)と思い至り、あわててえっちまんがを上にしてカラマーゾフを下にしました。どうだ!カモフラージュじゃないぞ!ってところを見せたかったのですが、よくよく考えるとぼくのこの屈折した自意識が最も恥ずかしいものであった気がします。

しかし「カラマーゾフ」、字おっきっ!かつひらがな多っ!もしかしたらこれなら私にでも読めるかも…と深田恭子ちゃんにCMで言わせても説得力がある感じです。とりあえず買って安心したのでそのうち読もうと思います。

現実的には長編を読んでる時間がないので、ウラジーミル・ソローキンの短編集「愛」を読みました。うー、猛毒。バタイユと似た読後感、というかひりひりぶりです。中でも表題作はすごくイイです。でもコレを巻頭に置いたのは、もともとの原書の構成がそうなってたからなんでしょうか。ある程度この人の世界観に触れてから読んだほうがこの作品の衝撃度は増すんじゃないかな…。猛毒ぶりっていうか。

そういえばバタイユの「目玉のはなし」も相当な猛毒ぶりでしたが、「目玉のはなし」って訳はちょっとどうなの?なんか(ベタな連想だけど)鬼太郎のお父さんが出てきそうなのどかな感じで、全然内容と合ってない気がするんですけど。旧訳の「眼球譚」の方がおどろおどろしくてよかったなぁ…。やっぱサリンジャーは野崎訳が最高だと思うし、何でもかんでも新訳にすりゃいいってモンでもないよなぁ、と考える今日この頃です。

愛 (文学の冒険シリーズ)
ISBN:4336039607 国書刊行会 1999/01 ¥2,625
そもそも何で「カラマーゾフの兄弟」なんか買おうと思ったかと言うと、このところ出張続きで移動時間が長いので、その間に普段読めない長い物語を読んでおこう、なんて殊勝にも考えてしまったからなのだけれど、実際に新幹線に乗り込むともう新横浜を過ぎたあたりから記憶がなくって、気がつくともう琵琶湖はとうに過ぎてしまっていたりしてあたふたと降りる支度をしなければならないので、結果的にいつもよりも短い物語しか読めないじゃないか、と現実の厳しさ自分の甘さに気づかされるのです。むしろ書店になくてよかったよ、「カラマーゾフの兄弟・1」。

そんなわけできょうの帰りはカラマーゾフと同じ光文社古典新訳文庫から出ているバタイユの「マダム・エドワルダ」を買って読みました。京都から新幹線に乗ってそろそろ眠くなる琵琶湖を過ぎたあたりにはちょうど読み終わる、という程よい短さで、かつ適度に狂っていて適度にエロティックで、電車の中でついつい眠くなってしまう人にはおすすめです。

しかし駅の本屋ってどうしてどこもえっち系の小説が平積みになっているのでしょうね。あんな直接的な本を移動中の新幹線の中で読むのだろうか。リラックスできないと思うけどな…。

そんな中、新大阪駅構内にある本屋はスゴイです。そこは「文芸・教育」「地図・ガイド・コミック」と分類されたコーナーがあって、いちばん奥のコーナーが「ゴルゴ13」。
「文芸・教養」と「ゴルゴ13」が同列に並んでるって一体…。しかも面積的に「文芸・教養」全体の面積よりも「ゴルゴ13」のコーナー面積の方が明らかに勝ってるし…。
やっぱ素敵です、大阪。

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)ISBN:4334751040 文庫 中条 省平 光文社 2006/09/07 ¥440
「カラマーゾフの兄弟」が売れている↓というので、
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070822/bnk070822001.htm
本屋をいくつか回ってみたのですが1巻はどこも売り切れでした。しかし26万部って半端じゃないですね。「ミステリーとして読んでるのでは」って新聞には書いてあったけどそうなのかな。新訳は読んでないので何とも言えないのですが、高校生のとき親の本棚に全集があったのを手に取ってみた時はとてもとても難解でついていけそうもなかったです…。それを新潮文庫版と合わせて延べ40万人が手に取ってる日本と言う国は、まだまだ文化的に捨てたものじゃないのかも知れませんね。この勢いでロシア系の作家ブームになったら次はナボコフの「断頭台への招待」を文庫化して欲しいです。

考えてみれば「カラマーゾフ」が売れてるのって、「長い小説」を読みたい!という需要はたぶん昔から変わらずにあって、でも村上龍も村上春樹も長編小説をずっと出していないように、日本を代表する作家さんたちがその需要に応えられていないっていうことなのかもなあ、ってちょっと思います。あ、宮部みゆきさんの新しいのは長いですね。立ち読みしてみよ。

会社のエレベーターの中で20代の女の子ふたりが会話していて、一方が話したネタに対してもうひとりが
「その話、超ウケるんだけど〜」
と返してたんですが、その声があまりにも平板で冷静で柳原可奈子が真似するハイテンションな感じとは程遠くて、すごく引っかかりました。

もしかしたら「超ウケる」って別に「本当に面白い」ってワケではなくて、「その話、超ウケるんだけど〜」というセンテンス全体がワンワードになっていて、しかもそれ自体は意味を持たないただの「相槌」になってしまっているのかも知れませんね。言葉のパワーが弱っているというか、言葉の「一発ギャグ」化しているというか。要するにすでに「とんがった言葉」ではなくなってるんでしょうね。「どんだけぇ〜」にも似た匂いを感じますが。

一発ギャグと言えば少し前に「ぐるナイ」って番組で紹介された時から気になっていた「小島よしお」が最近大ブレイク中ですね。「でもそんなの関係ねぇ!!そんなの関係ねぇ!!」と裸同然の格好で連呼するヤツ。

波田陽区やレイザーラモンHGの何が面白かったのかをその旬を知らない人たちには説明が不可能であるように、「小島よしお」も来年の今頃には何が面白かったのか全然わからなくなっているんだろうけど、でもいま現在見るとすごく面白くて、わけのわからないオーラに包まれているんですよね…。何なんだろう、これって。言葉って不思議だなぁ…。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ISBN:4334751067 文庫 亀山 郁夫 光文社 2006/09/07 ¥760
はじめまして。
日々ばたばたと働いております。
きのう、久々に会社の先輩から電話があって、
「お昼でも食べよう」
と言うので行ってきました。
開口一番先輩は、
「たこバス、4年後会社辞めてオレと会社作らないか?」

「はあ?」←(ちょっと古いけど)って感じですよ。

いや、来月辞めるから、とかならまだわかる。
でも何で4年後?いや、わからなくもないけど、
4年後が大転換期だからそこで一旗あげたい、とか。
だとしたら何で準備期間含めて3年後とかにやめておかない?

先輩はキラキラ目を輝かせていろいろ話してくれましたが、
ぼくはにこにこ聞きながらも心の中は冷め切っていました。

はっ!
これは何かに似てる!

そうか〜。
妻子ある男に口説かれる女の人って、
こういう気持ちなんだろうな〜。

よっぽど好きな男ならまだしも、
そうでもない男にこんなふうに口説かれたとしても
「別れてから来いよ!」だよな〜。

う〜ん。
いろんな意味で気をつけよう。

そんなわけでゆるゆると書き始めようと思います。

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