混乱してるので頭の中を整理してみようかと。
・評価されることはうれしいけれど、評価されることが目的になってしまうのはたぶん違うし、いつか仕事が楽しくなくなると思う。ただ、仕事とか会社とかって、ユーザーだったりスポンサーだったり評価してくれる人がいるからこそ成り立つわけで、それはアーティストと言われる人たちだって同じだと思う。誰からも見つめられない作品は道ばたの石ころと同じで、何の意味もない。
・意味がない?じゃあ「意味」って何だろう。意味って結局作り手と作品との関係性にではなく作り手と受け手と作品の三角形の中にあるんだろうか。たぶんそうではない。アーティストは作品のモチーフとなる対象に没入し、一対一の関係を持つことで作品を生み出さねばならないと思う。「ならない」ってことはないのかな。でも多くのアーティストはそうであったと思う。
・いや、だったらなぜゴッホやゴーギャンは精神を病んでいったんだろう。表現したい対象と一対一の関係を築けていれば、他人の評価なんて関係ないんじゃないのか?でもゴーギャンがタヒチにまでいったのは自分の中に描きたいものが何もなかったからなのでは?つきつめれば「評価されたいから」タヒチに行ったのでは?それをなしえなかったから病んでいったのではないだろうか?
・では、そもそも受け手のポジティブな評価をどれだけ強く多く得られるかによって作品そのものを評価されることが前提になっている我々のような人間は、「評価」以外の何をモチベーションに仕事をすればいいのか?
・「評価」のどこが嫌なのかをつきつめれば結局「私」を放棄しているように感じられるからで、ならば「私」と特定の「あなた」との「関係」の中に意味を見出せばいいのではないか、目の前の「あなた」を喜ばせる作品を作ること、そうすれば確かに「評価」という無機質な言葉から遠く離れられるように思える、でもそのためにはピカソがそうであったように「ミューズ」が必要なのではないか。あ、でもそれは順序が逆だ。作品を生み出すために「ミューズ」を創出するなんて、アーティストじゃないんだから。でも、誰だかわからない人に向けて作品を作るのはもう疲れた。
・オリンピック選手はどうなのかな。誰だかわからない人に「応援」されてうれしいんだろうか。勝手に期待されて結果ひとつで上げたり下げたりされて、「じゃあおまえがやってみろ」と思わないんだろうか。ぼくらが「おまえがやってみろ」と思わないのはそれ相応のギャランティをもらってるから。プロだから。でも何のプロだ?何のために作るのかわかなくてプロが務まるのか?
・ああ、だからアーティストやプロスポーツ選手は宗教に走るのか。「神」と「私」の一対一の関係の中ですべてを昇華させる。「フラニーとゾーイー」の中で、エゴのためじゃなく何のために演じるのかわからなくなったフラニーが「ふとっちょのおばさまのためにそれをやるんだ」ってゾーイーに言われてそれで救われる、その物語は今でも大好きだけれど、でもそれって宗教的ではあっても現実的ではないよね…。
・なんてもしかしたら考えても仕方のない堂々巡りをしている今日この頃です。いろんな企画は思いつく。通る企画書だってたぶん書ける。でも俺は本当にそれをやりたいのか?
・評価されることはうれしいけれど、評価されることが目的になってしまうのはたぶん違うし、いつか仕事が楽しくなくなると思う。ただ、仕事とか会社とかって、ユーザーだったりスポンサーだったり評価してくれる人がいるからこそ成り立つわけで、それはアーティストと言われる人たちだって同じだと思う。誰からも見つめられない作品は道ばたの石ころと同じで、何の意味もない。
・意味がない?じゃあ「意味」って何だろう。意味って結局作り手と作品との関係性にではなく作り手と受け手と作品の三角形の中にあるんだろうか。たぶんそうではない。アーティストは作品のモチーフとなる対象に没入し、一対一の関係を持つことで作品を生み出さねばならないと思う。「ならない」ってことはないのかな。でも多くのアーティストはそうであったと思う。
・いや、だったらなぜゴッホやゴーギャンは精神を病んでいったんだろう。表現したい対象と一対一の関係を築けていれば、他人の評価なんて関係ないんじゃないのか?でもゴーギャンがタヒチにまでいったのは自分の中に描きたいものが何もなかったからなのでは?つきつめれば「評価されたいから」タヒチに行ったのでは?それをなしえなかったから病んでいったのではないだろうか?
・では、そもそも受け手のポジティブな評価をどれだけ強く多く得られるかによって作品そのものを評価されることが前提になっている我々のような人間は、「評価」以外の何をモチベーションに仕事をすればいいのか?
・「評価」のどこが嫌なのかをつきつめれば結局「私」を放棄しているように感じられるからで、ならば「私」と特定の「あなた」との「関係」の中に意味を見出せばいいのではないか、目の前の「あなた」を喜ばせる作品を作ること、そうすれば確かに「評価」という無機質な言葉から遠く離れられるように思える、でもそのためにはピカソがそうであったように「ミューズ」が必要なのではないか。あ、でもそれは順序が逆だ。作品を生み出すために「ミューズ」を創出するなんて、アーティストじゃないんだから。でも、誰だかわからない人に向けて作品を作るのはもう疲れた。
・オリンピック選手はどうなのかな。誰だかわからない人に「応援」されてうれしいんだろうか。勝手に期待されて結果ひとつで上げたり下げたりされて、「じゃあおまえがやってみろ」と思わないんだろうか。ぼくらが「おまえがやってみろ」と思わないのはそれ相応のギャランティをもらってるから。プロだから。でも何のプロだ?何のために作るのかわかなくてプロが務まるのか?
・ああ、だからアーティストやプロスポーツ選手は宗教に走るのか。「神」と「私」の一対一の関係の中ですべてを昇華させる。「フラニーとゾーイー」の中で、エゴのためじゃなく何のために演じるのかわからなくなったフラニーが「ふとっちょのおばさまのためにそれをやるんだ」ってゾーイーに言われてそれで救われる、その物語は今でも大好きだけれど、でもそれって宗教的ではあっても現実的ではないよね…。
・なんてもしかしたら考えても仕方のない堂々巡りをしている今日この頃です。いろんな企画は思いつく。通る企画書だってたぶん書ける。でも俺は本当にそれをやりたいのか?
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