きのうに引き続き

2007年12月17日 読書
「人は他者によって救われえないのか」ということをあれこれ考えています。だって、家に帰ってきたら、40年も連れ添ったパートナーがビニール袋かぶって死んでるんですよ?ああ、自分は彼の支えになれなかったんだ、って思いますよね。「ビュッフェとアナベル」は、愛を貫いたふたりの美しい物語として描かれてるけど、そのあたりの絶望感は描かれていない。たぶんふたりは「自立した個人」であることにこだわりすぎたんだと思う。「相手にとってキラキラした存在でありたい」という思いにとらわれすぎたんだと。アナベルは結婚したときと40年経っても全然スタイルが変わらなかった、っていうし。まあ、日本みたいに結婚したらあからさまに「素」を見せ合う緊張感のない夫婦関係、っていうのもどうかとは思いますが、たぶんふたりともが相手に対して真摯でありすぎたんだと思う。ビュッフェには死ぬ前に言って欲しかった。「オレはもうアーティストたりえない、それでもここにいていいか?」って。きっとアナベルはそれを受け入れたと思うんだよね。甘えていいよ、どんなダメなあなたでも受け入れるよ、って。

ライプニッツはすべての存在は「モナド」というもので出来ていて、モナドには窓がない、って言ったけれど、これには二通りの解釈があって。ひとつは、「モナドには窓がなくて閉じられているから、人は結局外からの影響を受けることはなくて、自分の内部にあるもの(神を含めて)からしか救われない」という考え方。もうひとつは、「モナドに窓がないのはモナドが窓そのものだからであって、モナドは閉じられていると同時に開かれている、だから人は外からの影響を自分の中に取り込むことによって変わることが出来るし救われうる」という考え方。ぼくは圧倒的にふたつめの方が好きです。

考えてみればぼく自身が「彼女」の存在によって確実に「救われた」と思うし、それは「彼女」がぼくにとって完全な「他者」ではなくてある瞬間確かに「ぼく自身」であり「ぼくの一部」だったから、だと思います。たぶん「彼女」にとってもそうだったように。まあ日本人は昔から「自我」の境界線が曖昧なので、そういう意味では欧米の人たちより随分生きやすいかもね。

微妙に何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが、(いつも酔って書いてます!すみません!)まあとにかく「もう他人じゃないぜ!」っていう日本人独特の距離のとり方、というのは、モナドロジー的にはあり、なんじゃないか、ということで。

モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)ISBN:4121600746 新書 竹田 篤司 中央公論新社 2005/01 ¥1,418

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